知るは行ふ為

十二月十二日
道は説く人あれども之を知る人は鮮し。之を知る人はこれあり、これを行う人は鮮し。説くことを得ずとも、之を知るは説くに勝れり。説くは之を知らんがため、知るは之を行ふがためなれば、之を説きて知らざらんは説かざるが如し。之を知りて行はざるは知らざるがごとし。
(沢庵和尚)

読み下し文

道(みち)は説(と)く人(ひと)あれども、之(これ)を知(し)る人(ひと)は鮮(すく)なし。 之(これ)を知(し)る人(ひと)はこれあり、之(これ)を行(おこな)う人(ひと)は鮮(すく)なし。 説(と)くことを得(う)ずとも、之(これ)を知(し)るは説(と)くに勝(まさ)れり。 説(と)くは之(これ)を知(し)らんがため、知(し)るは之(これ)を行(おこな)わんがためなれば、 之(これ)を説(と)きて知(し)らざらんは説(と)かざるが如(ごと)し。 之(これ)を知(し)りて行(おこな)わざるは知(し)らざるが如(ごと)し。

文章の解釈

「正しい道について語る人は多いが、本当に理解している人は少ない。理解している人はいても、それを実践する人はさらに少ない。 たとえ言葉で説明できなくても、真理を体得していることは、ただ能弁に語ることよりもずっと価値がある。 なぜなら、語ることは知るためであり、知ることは行うためだからだ。 語るだけで理解していないのは語っていないのと同じであり、知っていても行わないのは、実はまだ何も知らないのと同じことなのだ。」

新渡戸先生とこの言葉の響き合い

新渡戸先生が『一日一言』にこの沢庵の言葉を選ばれたのは、先生が常に「人格の形成」を重んじていたからではないでしょうか。

先生は、教育や学問が単なる記憶の蓄積になることを嫌いました。西洋の哲学と東洋の精神を融合させた先生にとって、真理は「頭で理解するもの」ではなく「生き方そのもの」でなければならなかった。この沢庵の言葉は、まさに新渡戸先生の「武士道精神」や「クリスチャンとしての実践」を象徴する鏡のような一節と言えます。

沢庵和尚が説き、新渡戸先生が大切にされたこの言葉の本質は、「知ることの完成形は、行動することである」という極めて実践的な哲学にあります。

四つの段階に分けて考えてみましょう。


1. 「説く・知る・行う」の階層構造

まず、この文章は人間が真理(道)に触れる際のレベルを、厳しい視点で分類しています。

  • 説く人(説者):理屈を並べる人。世の中に溢れているが、中身が伴っていないことが多い。
  • 知る人(知者):真理を腹に落としている人。説くことよりも尊い。
  • 行う人(行者):真理を生活の中で体現している人。最も希少で尊い。

新渡戸先生は、当時の知識人が「説く」ことだけに終始し、自分を磨く「修養」を忘れていることを危惧していました。この文章は、まずその甘えを打ち砕くところから始まります。

2. 「手段」と「目的」の逆転を正す

ここがこの文章の最も鋭い論理です。

説くは之を知らんがため、知るは之を行ふがためなれば

  • なぜ説くのか? → 自分がより深く「知る(理解する)」ためである。
  • なぜ知るのか? → 実際に「行う(実践する)」ためである。

つまり、すべての終着点は「行い」にあるということです。私たちは往々にして、本を読んだり話を聞いたりして「知った」だけで満足してしまいますが、それはマラソンのスタート地点に立っただけで、まだ一歩も走っていないのと同じだと指摘しているのです。

3. 「不言実行」の価値

説くことを得ずとも、之を知るは説くに勝れり

流暢に喋れなくても、その真理を深く自覚している人の方が、中身のない演説家よりずっと価値がある。これは、寡黙ながらも背中で語る日本的な理想の人間像(武士道的な誠実さ)とも重なります。

4. 厳しい全否定による「知行合一」

最後の一節は、読者に強い衝撃を与えます。

之を説きて知らざらんは説かざるが如し。之を知りて行はざるは知らざるがごとし。

「実行していないのであれば、それは知っているとは言わない。知らないのと全く同じだ」という、一切の言い訳を許さない結論です。 たとえば、「親孝行が大切だ」と知識で知っていても、実際に親を大切にしていなければ、その人は「親孝行」という言葉の意味を本当には知らないのだ、という極論に近い厳しさです。

英語訳

英文翻訳:The Unity of Knowledge and Action

Many can preach the Way, but few truly know it. Some may know it, but fewer still are those who put it into practice.

Even if one lacks the eloquence to preach, knowing the Way is far superior to merely speaking of it. For the purpose of preaching is to lead to knowledge, and the purpose of knowledge is to lead to action.

To preach without knowing is the same as not preaching at all. To know without acting is the same as not knowing at all.


翻訳のポイント

  • The Way (道): 東洋哲学における「道」を、新渡戸先生も好まれた大文字の “Way” と訳しました。
  • Knowing vs. Acting (知と行): この文章の核心である「知行合一」を強調するため、対比構造を明確にしています。
  • The same as… (〜が如し): 沢庵和尚の強い否定(〜ざるは〜ざるがごとし)を、論理的な等価性を示す “the same as…” で表現し、新渡戸先生らしい、凛とした説得力を持たせています。

一日一言(新渡戸稲造)

私の尊敬している教育者の一人である新渡戸稲造先生。
有名なのは著書『武士道』、国際連盟事務次長、東京女子大学初代学長という経歴はご存じのことと思われる。
また、今回のお札改定変更で同じ教育者の津田梅子氏へと交代したが日本銀行券の五千円券の肖像としても知られているはず。

この人が自分の助となつた格言を集めて、その日その日の教訓になる格言を日本人が理解できるように、また、簡単な文章で一日の精神的糧になるようにと書き残したのがこの文書である。ただ、1915年(大正4年)の脱稿なので、また、文語文の形態から令和のZ世代人は理解できるかなは甚だ疑問であるが…

もう一つの特徴としては一日分を声高らかに誦(しょう)しても一分以上を要しない短文であるということ。
あなたも私のブログを見ながら音読してみませんか?

今日の糧を得られるかもわかりませんよ。